人が命を絶つとき

人はなぜ自殺するのか、僕はなぜ自殺せず生きてこれたのか。

思うに、人は支えを失うと死ぬのだろう。
それは人や物や信念かもしれないし、他にも将来や過去や様々があるだろう。

ここからは僕の話になる。表題の「人が命を絶つとき」という事柄まで少し長いがお読みいただきたい。
僕は高校の頃に自分のアイデンティティーであったところの、学校での成績を失った。同時に、将来の夢であった機械工学のエンジニアになろうという夢を諦めた。そもそも、僕は極めてものぐさな人間で、生きていることが酷く面倒だと感じながらそれまでの十数年を過ごしていた。

高校の終わり、卒業間近に全てを捨てたら身軽になった。同時に、どうして生きているのかということが不可解な人間となった。不可解というのは、例えば道端に食パンが落ちていたとしよう。どうしてこんなところに食パンが落ちているのか不可解に思われるだろう。そのような不可解さを抱えて、空虚な自分を埋めるために何が必要かを考えた。当時は、目標と友人と自負が必要なのではと考えて、それらを手に入れようと行動していたのだと思われる。

一定数の人々は飲み会か何かの場で、その状況を楽しむ周囲の人や自分に対して一歩引いた冷めている自分を感じたことがあるのではなかろうか。大学の頃の僕は初めから終わりまで自分と、その状況もしくは現実に何とも表しがたい距離を感じていたように記憶している。それによる心の空洞と、虚飾と、意拳の無い意見が、自分を他の人間とは違った何か機械のようなものであるという考えに陥らせた。
本筋とは離れるが、高校生の頃から感じていた自分が発達障害を持っているのではという疑いが、その虚無に耐えられなくなりカウンセリングを受けた際に明らかになった。なお、僕が抱えていた虚無、というより何も抱えられなかったことについて発達障害は特に関係が無いと考えている。

そして、僕の意見には心が込められていないと気付いてくれる人たちが伝えてくれるごとに、僕が何も抱えていない存在であるという自覚が確信へと固まっていくことになる。
しかし今は、僕の心の空洞は幾分か満たされているように感じる。もしかしたらそれは錯覚かもしれないし、ただ都合よく空洞を忘れているか気付いていないだけかもしれない。

どうして僕の空洞は満たされつつあるのだろうか。ひとえにそれは感情について気付くことが、ある時点で行えるようになったからなのだろう。その時点以前の僕は、理屈を主にして物事を判断したり行動や表現をしていた。しかしその根底には自分の意思であるとか好き嫌いであるとか、そのような個性が伴われていなかった。
例えであるが、太郎さんと花子さんが喧嘩している場面で、太郎さんからどちらに問題があるのかという相談を受けたとする。主体性が無かったころの僕はこう答える。
「太郎くんにはこのように非があるし、花子さんにもあのように非がある。その原因としては、各々このような背景がある。だから、そのことについて考えればお互いを認められるかもしれないよ」と。
今でも別にこれは間違った返答だとは思わないし、むしろこのように分析的なことをその場にふさわしい口調で伝えるだろう。ただ、欠けていたのは、僕がそのことに対しての感想や感情や好き嫌いなのだった。
この例えだけで想像していただくことは難しいかもしれないが、ともあれ僕は分析をすれど自身の感情を述べることは無かった。あったとしても、相手が求めていそうなことを機械的に返していた。

そして、僕は客観性や公平性を捨て、自分の好き嫌いを第一に置いて行動や意見の表明をすることとした。なんとも幼かった僕には、自分に感情や好き嫌いがあることに気付いていなかった。今は理屈よりも感情を優先している。そうするとどうなるだろう。自分に対する不可解さが解きほぐされていった。

ここまで表題について述べていなかったので以下で触れようと思う。
人がその生きることについて支えを持つには、何か、人や信念や環境やその他の諸々に対して、自分の一部であると感じることが必要なのではないだろうか。そして、それを失うと人は死ぬのだろう。
自分のことを自分の思う通りにすることは難しい。そこで、人が命を絶たないようにするために、少なくとも僕は僕自身と切っても切れないような友人や環境を探し、求め、助けてもらってきたので今まで死なずに済んでいる。それができたのは自分の好き嫌いに気づき従うようになれたからだと思う。

この文章がぼんやりと死を考える人に届けば幸いである。
お読みおいただきありがとうございました。

僕と性別。

物心がついた頃、つまり、思い出せる中で一番古い記憶の一つ、恐らく三歳になるかならないか、そのときに見聞きし、考えたことを今でもはっきりと思いだせる。
「テレビに映っている女の子のドレスを着たいなぁ」
女児向けアニメの衣装か何かだったと覚えてる。かわいい服を着れたらどれだけ楽しいかなだとか、僕もあんな風になりたいなだとか、そんなことを考えていた。でも、それはおかしいことだから親に言うと困らせる、と思い込んでしまい、黙っていた。

ところで、僕は自分を女だと思ったことは一度も無い。ただ、男であることには強烈な違和感がある。

男として扱われることが苦痛だった。「男らしくしろ」「男なら」「男の子なんだから」そんな台詞を聞くたびに嫌悪感が襲う。いまでもそうだ。でも当時の僕は、男だから女のような言動をしてはいけないし、そうすると僕の秘密が知られてしまう、そう考えて女の子のするような言動や素振りは微塵もみせないように自分を隠して抑えつけていた。
だからトイレは座るようにと言われても頑なに立って用を足したし、本当は履きたいタイツを履かされたときはパニックになって泣きながら抗議した。

そうして、自我の芽生えと同時に誰にも言えない秘密を勝手な思い込みから作ってしまった僕は、それだけは何としても気付かれまいという思いから、人に本心から接することができなくなってしまった。親、親戚、友人、ご近所さん、学校の先生、誰と話しても根っこに本心を隠しているという後ろめたさがあったために、心を開くことができなかった。そして、誰も僕の考えていることなんて気付いてくれないんだと拗ねていた。人との関係性が上っ面を滑っていた。

もちろん、四六時中そんなことを考えていたわけでは無い。でも、心の隅にはいつも淋しさが付き纏っていた。
「誰か僕のことに気が付いて下さい」
ずっとずっとそう思っていた。
そこまで必死に隠す必要があったかなんて、単なる僕の思い込みに過ぎなかったのは確かだ。でも否定される排除されることが怖かったし、気を使われたりするかもしれないというのも嫌だった。
かつて、僕は人を信じていなかった。僕が思っていることを素直に言う勇気が無かったからだ。そのせいで独り思い悩んでいた。でも、大人になるにつれて多くの人と接して様々な価値観に触れたり、幸いにも周りに僕を認めてくれる人がいたからこのことを人に言う勇気が生まれた。だから今こうしてこの文章を書いている。

今では、誰にでも明かせるというわけでは無いものの、特に言う必要も無ければ隠す必要も無いという考えに至ったし、否定したり気味が悪いと言う人がいようとそこまで気に病むことは無くなった。
昔とは違って、僕に女性的な面があると言われると素直に喜べるし、むしろ不自然にならない範囲で女性的な振る舞いをしたいと思う。それに合わせてか、男性としての自分への嫌悪感も昔よりは薄らいだ。昔は男の荒いノリに違和感があったり怖かったりしたけれど、今では馬鹿な友達といるときなら積極的に男らしく振る舞うことにも抵抗は無い。
というのも、性別に関係無く僕は僕であると胸を張って言えるようになったからだ。


ただ、それでも、それでもやっぱり、僕は女の子になりたかった。
だから今は女装をしてかわいく撮れた写真を公開するし、過去にはツイッターで僕が男性だと思われないような文章を心がけていた。それがせめてもの抵抗で救いだったから。

いつまでこの悩みが僕を苦しめるのかは分からない。恐らく一生つきまとうだろう。
ときには殺しにかかってくることもある。本当につらくてつらくて負けそうになる。

ただ、僕は僕として生きるしか無いということだけが確かだ。
だから、これを読んでくださった人にはこれからも今までどおりに接してもらえると嬉しい。
僕の望みは、ただ、僕がこういう人間なんだということを知ってほしかっただけなんだ。

お読みいただきありがとうございました。

誕生日に贈り物を届けてくれる、そんな人のお話。

少し空想の話をしようか。
これは僕のお伽話だけど、もしかしたらあったらいいね、だなんて話なんだ。

恋人よ。

街には路傍で寝ているおじさんたちがたくさんいるよね。これはその人たちの中の一人のおじさんの、優しい優しいお伽話。君が眠りにつくときに聞かせてあげるよ。

誕生日おじさんの話を知っているかい。君の生まれた日を祝って贈り物を届けてくれる人のことだよ。彼はどこから来てどうして君の欲しいものを知っているんだろう。それは、彼が道端で君たちの話し声に耳を傾けているからなんだ。

雑踏の中で僕たちは様々な話をするよね。そのなかで、贈り物の話に対しては、彼の聞き耳が一層そばたでられるんだ。そうするために彼は家を捨てた。都会の中の片隅で身をうずめながら、蔑まされることなんて厭わずに。
もちろん、人にものを贈るには実入りが必要だね。彼はきちんと収入がある。でも、自分のために使うことはせず、ほとんど全てを誰かに与えるために費やすんだ。

僕が君に渡すこのプレゼントも実は彼から託されたものなんだ。なんて言ったら君は、僕が選んだり自分で手に入れたのではないんだと、がっかりするかもしれないけど、僕が君にあげようと思った贈り物が不思議と手元にあった。彼がくれただなんてことは到底知りえないことだけど、僕はきっとこれを置いてくれたのは彼こそがそうだなんだって信じるよ。

なんてことを恋人に言ったらさ、あったらいいね、ハハハと、笑ってくれた。それを友達に言ったらバカみたーいって言いながらも彼女たちの笑顔は決して嘘ではなかった。僕はその顔が見られただけでとても満たされた気持ちになれたんだ。

ありえない、と一蹴するのはいいけれど、あったらいいねって少しでも思ってくれれば僕は嬉しいよ。そうして世界が優しくなるならばね。

考えることを毒にしないために。

僕は小さいころから今に至るまで色んな人から考えすぎだと言われてきました。確かに人からすれば考えなくても良いようなことを考えてしまいがちなんだと思います。でも僕にとってはそれが必要なことだからこそ考えてしまうのです。考えることは毒にも薬にもなります。でも、本当は必要の無いことなのかもしれません。だって、考え出すとそれこそ切りが無いからです。

例えば未来のことを考えたところで、区切りを付けないと無限とまではいかなくてもどんな可能性も想定できてしまうわけです。なので、時にはエイヤと踏ん切ってしまわないと、いつまでも同じところでぐるぐるしてしまうのでは無いでしょうか。だから、僕は考えて出す結論は三つまでにしておいて、三つ考えたらそれを信じて、というより無理矢理にでも信じこませて言い聞かせて、動いてしまおうと決めています。動いてみないと結果は出ないし、結果が出ないと新しく考えることもできないからです。

上で述べたのはあくまでも僕のやり方なので、動かなくても次々と考えを進めていける人もいるでしょう。例えば学問をする人は理論をどんどん発展させられるのかなって思います。それでも社会科学ではフィールドワークが重んじられたりしているようですが。

それでも、日常生活を送って行くには考え続けるよりも、区切りを決めておいて動いちゃうのがいいかなって思います。これは結局、考えることを止めているように見られるかもしれませんが、僕はちょっと違うと思っていて、考えを進めていくために必要なことだと思っています。

人生に意味はあるのかだとか、人と関わるより独りの方が上手くやれるんじゃないかとか、働いて幸せになれるのかとか、そもそも幸せってなんなのかとか、ずっと考えるよりはある程度の過程ができたところで試してみるのがいいのかなって思いました。そうすると僕の中では、人生に意味なんて無いけど作ろうと思えば作れる、人と関わると集中力は散ってしまうけど学ぶことも多いので使い分けよう、働くと苦しいことつらいことも多いけど達成感や充実感がある、幸せってよくわかんないけど感じることはできた、という風な当たり前ですが、言葉や頭で理解するより実感してみた方が分かりやすいと思えました。

考えることは無限になってしまうけれど、もしもそれが苦しいことならばまずは臆せず試してみてはどうでしょう。失敗に慣れることも大事だと思います。月並みですが、人生で遅すぎることはあるにはあるけど、遅いからといって何もしなければ何も起こらないので、考えたことをちゃんと結論に至らせられるように、そのために何ができるのかもまた、考えることが大切だと考えています。

それでは、毒にも薬にも役にも立つか分からない雑感でした。読んでくださってありがとうございました。

がんばったら気持ちよかった話

いまお勤めさせてもらっている会社の企画のサイトが先日リリースされました。

関係各所への責任を考えてプレッシャーがのしかかったり、とても重要な部分で致命的な不具合を出して精神が潰れそうになったり、不具合の許されない金銭を扱うプログラムの一部を担当して何度か吐いたり、文字通り泣きながら大事なお仕事をさせてもらいました。いまこれを書きながら色々なことを思い出して少し涙ぐんでいます。

そんなこんなでお仕事が一段落つきまして、終わるまで、終わった後に振り返りながら、大きな重圧や難しいことをやり終えると、当たり前ですが達成感がすごいんです。
今までとにかく責任から逃れたり途中で投げ出してたくさんの人に迷惑かけたり、ダメ人間の典型例のような生き方をしてきましたが、やっぱりしんどいことに最後まで取り組むと、少し前の自分よりも自信を持っている今の自分がいました。

いろいろと言い訳したり、なるべく簡単で責任の軽いことをするより、やって出来なくはなさそうならなるべく難しいことに挑戦してみること、すごく良かったです。
とにかくつらかったですし、今もかなりしんどいことが多いけれど、お仕事以外のことでも人間関係や生活の中で、なるべく少し難しいことでも続けられる範囲でがんばりたいなと思います。

月並みですが、いま関わってくださってる方々、これまで関わってくださったけど恩返しできてない方々、みなさんのおかげで最近はこのように頑張れております。いい感じの人生になってまいりました。

最近思ったことのかんそうぶんでした まる

優しさ

人に優しくされるのを心苦しく感じるときがよくあります。人に優しくするのも苦しく思うことがよくあります。優しさとはどういう言動を指すのでしょうか。施しですか?癒しですか?厳しくすることですか?その人のことを慮ることですか?どれもこれも優しさかもしれないし、そうじゃないかもしれないですね。

嘘も方便という言葉があります。これは優しさでしょうか。人を傷付けない、不快にさせない、そんな嘘はよくもないだろうけど悪くはない、そんなことはあるんでしょうか。

僕は人に優しくされると申し訳なくなります。特に自分は迷惑をかけていると思っているときに強く感じます。僕は人に優しくすると申し訳なくなります。こんなことをしてしまって責任が取れるのかなって。
例えば仕事で失敗したとき、何も咎められないと怖くなります。例えば誰かが失敗したとき、僕にとっては些細な問題だよと何も言わないことが自分に何かを溜めてしまうんじゃないだろうかと思います。

優しさってどういうことでしょうか。結局は都合の押し付けじゃないでしょうか。押し付けが相手にとって心地良ければ優しさで、そうでなければお節介、そういうことじゃないでしょうか。
ただ、押し付けられることは、それはそれで安心できます。だって、それはその人の気持ちを伝えてもらえているわけで、人がどうこう、世間がどうこう、ではなくって、その人がどう思っているかが分かるわけで、それはとても素敵だなって思います。

やっぱり優しさが何かは僕にはわかりません。でも、僕がしたいと思うことは自分の気持を伝えること、誰かに与えられた気持ちに答えること、全然できないですけど、そうあることがいいのかなって思います。

人間であること、生きてくこと、を少しだけ前向きに考える方法、だなんて暴力だ笑わせるな

 人間をやるのは煩わしい。人生も煩わしい。嫌なことや面倒なことだらけだ。食べないとおなかが減る。お風呂に入らないと身体は汚れる。出かけるのも何をするのも面倒臭い。でも、食べれておなかがふくらめば気分が良くなる。お風呂に入れば気持ちがすっきりする。悪いことがあるから、良いことが良いのだと思える。そう考えれば人間も人生も悪くないかなって思える。
 人生の煩わしさを感じていた僕が「全知全能になりたい」と言ったら友達がこう答えた。「そんなの楽しくないじゃん」その通りだと思う。思っていることがそのまま叶ってしまえばそうする意味なんて無くなってしまう。分からないから不安だけれど分からないから楽しいんだ。出来ないからもどかしいけどもどかしいから何とかしたいんだ。だからそれが人生の面白さや楽しさなんだと思う。

 でもね、これって暴力なんですよね。うつ病の人にこんなこと言っても、その人の考え方を否定するようなものなのかなって。だって、前向きに考えることが理屈では解っても気持ちが付いてこない。そんな人に綺麗事をぶつけて何になる?喩えとして適切かは分からないけれど、自転車はペダルを漕いでハンドルでバランスを取る、と言葉で説明できても実際に乗るとなると話は別になる。そんなものなのかな、と思います。人生が楽しくない人に人生って楽しいよなんて言ってみろ。それこそ暴力だ。その人は楽しくない虚しいつまらない人生を世界を生きているんだ。それを否定するんだぞ。そんなことを僕はしているのかもしれないし、僕がつらいときは前向きに考えようと言ってくる人たち全員に殺意が湧いた。親切なのは分かっている。優しさなのは分かっている。でもそれが自分を苦しめて、そんな自分がまたたまらなく嫌になる。そんなことが誰を幸せにするのかと思うけど、本人にもどうしようもない苦しみなんだ。
 だから、僕に出来るのは、僕が楽しむのはそれはそれでいいのだと自分に言い聞かせて、だけどそれを人に強要したり、見たくもない人に見せたり聞きたくもない人に話さないよう、その人を突き放すような否定で殴りつけないよう、でもその気遣いが高慢に映らないよう、そうするしか無い。

 つらい人に、心が疲れきっている人に接するのは本当に難しい。だからってそんな人たちを避けるようなことはしたくないが、でも敢えて接することも無い。自分の近く、自分を思ってくれる人が苦しんでいる時にその人が望む手を差し伸べられればそれでよくって、自分の目に映るからと言ってそんな人に善人のツラを見せつける必要は無い。

 何を言いたいのかちょっと分からなくなってきたけど、とにかく僕は誰も不快にしたくないし、誰からも不快にされたくない。ただそれだけです。そして少なくとも僕は、つらいときでもどんなときでも、その人が心からの親切さで接してくれているのであれば、それを跳ね除けるようなことはしたくない、ただそれだけです。