discommunication

なんだろう、人は言葉を使う。動物もある程度の抽象的な思考力はあるらしいけど、人間は言葉の力でそれを大きく増大させている。そして、動物と決定的に違うのは、その思考を他者と共有できること。発した言葉は空間・時間を超える。先史時代の壁画、古代の絵画や文字。中世以降の記録。

しかし、超えられない壁がある。それは理解の壁。私たちは私たちの見聞きしたいものしか受け取れない。世界に直接触れることは叶わず、認知の膜越しにしか感じることが出来ない。認知の膜を通過できるのは私たちが関心を払う、欲しいと思う情報だけ。後はバッサリ捨てられる。

そして、認知の膜を通過した情報たちは、私たちの思考の中で再構築される。どの様に組み上がるかはその人次第。その人が組みたいように組み上げる。そこに発信者の意図は介在しない。
このようにして、言葉-情報は発信者の手を離れて受け手・読み手のモノとなる。言葉を発した人の意志は届かない。拡散するけれど意図は発散する。そして膜越しの情報は元の持ち主から断絶し、受け手という新たな持ち主のモノになる。

こうして人々は互いに何も通じることが出来ず、誤解と錯覚だけが蓄積する。

誤解誤解。何も伝わらないというのは悲観的すぎるだろう。伝わっているかを確かめるのはお互いに確かめ合う以外の方法は無い。それ以外は無い。脆い。それを行うのに文字媒体は酷く難しい。対面で会って話す以上の意思疎通は無いだろう。しかしそれが無理な場合は?